運命と呼ばせて欲しい
運命は安易な現実肯定論だというけれど、まったくその通りだと思う。
でも、そうだったとしても、私は運命というものがあって欲しいと思う。神を信じる感覚に近い。
あの人と出会ったのも運命、別れたのも運命。
そう考えると楽になれる。
その出会いや別れが私の何かを変えたのならそれは運命なんじゃないかな、なんて思ったり。
いや、その出会いや別れに意味があったって信じたくて、便宜上運命とよんでるだけのものなんだ、私の運命は、なんて思ったり。
どちらにせよ、わからないから好きに都合よく考えていいと私は思うんだ。本能寺の変について書かれた本がたくさんあるみたいに、自分と他者の意見の違いを諸説ありで片付けたい。
私は運命を信じるし、自分を信じる、本当に自分が信じたいと思っているものを見極めたい。
なんかこの文を書いてるときにもデジャヴみたいなのが起きて(これは私が病的だからかもしれないけれど)、傷ついたって言葉が出てきた。
ごめんね。幸せになって欲しいと思う。こう思うことで自分が楽になれるから思ってると思いたいだけかもしれないけれど、それでも幸せになって欲しいと思うって書く。
ごめんなさいの方が大きいしこの言葉を使うのは憚られるけれど、ありがとう。さようなら。
毎回毎回懺悔みたいなブログしか書けなくてごめんなさい。
人生で1番の。
昨年の夏も「今年の夏が人生で1番の夏!」と言っていたように今年も今年の夏が人生で1番の夏になった。
私の記憶の中の思い出はどんどん上に重ねられていっているように感じる。
もちろん全ての記憶は個々にわけられている、はず。
でも私の記憶の本棚は整頓されていないためか、ある人について思い出そうとするとその人について「〜な人だったなあ」とかそういう抽象的なものしか浮かばなくなる。それ以上に楽しかったこともあれば悲しかったこともあってもっと複雑な感情を抱いていたはずなのに…思い出せないのが当たり前なのかな、と思うとかなしくなる。
そういうかなしさを持ち続けていたら自分自身が過去の人になってしまうとわかっていても、かなしくなる。
そんなことを考えてしまう人間だからかな、最近人生で1番の失恋をして、そのかなしさから抜け出せなくてずっと憂鬱だった。(現在進行形かもしれないけれど)
やっとマシになってきた。
寝ることもご飯を食べることもできなくて、たぶんこれは本当に「人生で1番の、」だった。
あの人とは短い期間ではあったけれど、とても深い付き合いをさせてもらった。
なんというか、良くも悪くも深い付き合いを。
私もあの人もまだ幼くて精神が不安定で最終的には傷つけあって関係は終わったけれど学ぶことがたくさんあったと、本当に出会えてよかったと思う。(私は前世とか神様とかそういう目にみえない不確かなものを信じているから、魂を昇華させるための縁だったんだと勝手に都合よく考えている)
ただ、まだ、あの人が思い続けている綺麗なメデューサを学校でみると肝が冷えて石になってしまう。
私はあの人とその綺麗なメデューサがくっつくことに劣等感を抱いている。
あの人にはもう当分(いや一生かもしれない)、連絡することも会うこともないけれど、その綺麗なメデューサは学校を卒業するまで見続けることになる。
私はその度肝を冷やし続けるのかと思うとそれにまたゾッとする。
でも、ゾッとしているうちは「まだ」なんだろうとそこで気付かされる。
ありがとう。
男とか女とか、欲とか関係なく、あたたかい やさしい心 光 つつめる日がくるように。
ミがない
2weekのコンタクトをいつからつけていたか…?思い出せないです。多分2週間以上経っている。早いなあ怖いなあ、こんなことを言ってるうちに気が付いたら人生が終わっているんだろうなあ。
毎日、不毛なことばかり考えてしまう。それに意味を持たせることに必死です。果敢ない。そんなことしても何もうまれない。それは虚無?いけないこと?…あっ、連鎖です。
好きな人間に「誰が何しようと自由で思考停止し全ての落とし所をつけて良いことを言った気分になるような人にだけはなってはいけない。」と言われてしまった。綺麗事なのはわかっているけれども、私は綺麗でいたいよ。
ああ、何もまとまらない。
そのうち、まとまる日が来るかな。